旧暦について

旧暦 和の暦を知る

ここでは旧暦や新暦について書いています。

旧暦について

旧暦とはどういう暦?

日本の旧暦は、正確には太陰太陽暦といって月が基準の太陰暦太陽が基準の太陽暦が折衷となっています。

太陰暦の利点

太陰暦は、月の運行をもとにした暦です。

お月様が出ない夜(新月)を朔(さく)として毎月1日頃、それから三日月になって、半月(上弦の月)になって、満月(望:ぼう)、半月(下弦の月)から新月へという約29.5日を1ヶ月としたものです。
月遅れといって、数年に一度、閏月がはいります。

太陰暦は月の満ち欠けを基本にしているので、満月の日は必ず15日となります。

毎月の日にちと月のかたち(明るさ)が一致するので、夜の行事の予定が立てやすいのが利点です。
今でも盆踊りが8月15日付近なのは、旧暦なら15日は満月になるのがわかっているので、夜でも月の明るさで踊ったり遊んだりできたからです。現在の8月15日の月のかたちは、毎年変わります。

夜の照明のなかった時代は、太陰暦が便利でした。
夜の仕事・外出、場合によっては戦ができるのかが大事な問題です。
太陰暦であれば、空を見れば月齢が解り、月の出がどの時分になるかも分かり、おおよその日にちがわかります。

漁師や船乗りにとっては、干潮・満潮を知るのが大事な問題となりますが、これらは月の位置に伴う現象なので、太陰暦で何日か解れば、いつ頃が干潮になるか、満潮になるか、がおおよその目安がわかります。
潮の満ち引きの大きい大潮は、新月付近と満月付近の頃なので、日にちが分かれば潮の状態が分かるのです。

太陽暦の利点

太陽暦は、太陽の運行をもとにした暦です。
日付と季節がいつまでたっても基本的に狂いません。
人為的に暦をずらす「うるう」も、4年に1日だけの調整で済みます。
植物の生育、すなわち農耕に便利な暦です。
日にちを決めていると、去年も今年も来年も大体その日には同じ気候が巡ってくるので、予定が立てやすいわけです。

太陰太陽暦

太陰暦は便利ではありますが、閏月をどこに入れるかはその年により一定していませんし、同じ月が2度でてくるわけで、農業には不便でした。
そこでさらに、何月何日とは別に、太陽暦に由来した、1太陽年を24等分した「二十四節気」というものを設けて、夏至・冬至・春分・春分をはじめとして、立春とか大寒などといった季節の言葉を暦に入れ、季節の指標として農業などの便宜を図りました。

そういうものを網羅した太陰太陽暦は大変複雑なもので、制作には高度な技術が必要でした。

2033年、旧暦は消滅する?

実は現在、日本では旧暦の日付は公式には制定されていません。
民間で非公式に利用されている「天保暦」による旧暦の月決法では、2033年に月名が決められなくなるという「2033年問題」というものがあります。

中国では春節があるため、政府が今も公式に中国式の旧暦を作っています。
旧暦が決められなくなると、六曜も決められないということで、冠婚葬祭で困ることになりそうです。

月遅れとは?

旧暦は新暦との差は、必ずしも1ケ月ということではありません。
短いので22日ほど、長いので45日ほどの差が出ます。

月の運行(1ヶ月)は29.5303882日なので、太陽の運行とはズレが生じます。
19年に7回は1年間を13ヶ月にして、太陽の運行にあわせて季節感がずれないように調整する必要があります。

1ヶ月の差というのは、月遅れの各種行事に見られます。

旧暦だと毎年、新暦の日にちが変わりわずらわしいので、1ヶ月遅れなら昔の年中行事の季節感が守れるのではないか、ということで月遅れという考え方が生じたようです。

旧暦と新暦

いつ旧暦から新暦に変わった?

日本で現在の暦(新暦)が正式に施行された年は明治6年(西暦1873年)。
これまで使われていた太陰太陽暦(天保壬寅暦、旧暦)が廃止され、現在の太陽暦(グレゴリウス暦)が正式な暦とされました。

この改暦が正式に決定したのは、明治5年11月9日 (旧暦)のこと。
「太政官布告(第337号)」という法律によって、新暦への移行が布告されましたが、法律の公布から改暦まで1ヶ月もないという慌ただしさだったそうです。

実際に太陽歴に変わったのは、明治5年12月3日。
明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)で、翌日の12日3日からいきなり明治6年1月1日となり、現行の太陽暦(新暦)に変更されました。

なぜ新暦に変えた?

理由は、髷を切ったりしたのと同様で、文明開化がきっかけで一気に変更になったようです。

1年が12ヶ月だったり13ヶ月だったり、元旦が前後数十日ずれてしまう暦だったのを、合理化の流れとともに、欧米の様式に合わせた、というのが主な理由としてあげられていますが、それにしても明治の改暦は突然で、十分な検討もされないまま施行されたので、多くの誤りや問題点を残しました。

そこまでして明治新政府がその時期に改暦を行った理由には、深刻な財政問題があったといわれています。
旧暦では翌明治6年は閏年で、閏月が入るため1年が13ヶ月ある年になる予定でした。
既に役人の給与を年棒制から月給制に改めた後なので、明治6年には13回、給与を支払わなければなりません。
このことは、財政難であった明治新政府にとって悩みの種でしたが、太陽暦に切り替えることによって、12回ですませられ、さらに明治5年の12月は2日しかないので、この月の月給は支払わないこととすれば、明治5年分の給与も1月分減らせる、正に一石二鳥の改暦だったというわけです。

新暦に変わった際の混乱は?

まず困ったのが印刷業界です。
改暦が発表されたのが11月だったのですが、その際にはすでに多くの出版社で翌年の暦が印刷し終わっており、全て紙屑となってしまったそうです。

それから金融業界も大混乱したようです。
当時は銀行というものが存在せず、金貸し、ツケ買いが一般的でした。
ツケで買って月末や年末に払うのが習わしだったのです。
でも、その年の12月は月末も年末も消滅して次の年になってしまったため、踏み倒せてしまい、大混乱しました。

また、改暦とともに、それまで暦につきものだった迷信的暦注を、明治政府は暦から削除させ、それが民衆から受け入れられず、暴動さえ起こったとのことです。
いまでも六曜は暦に残っていますね。
いくら新政府が新暦の普及につとめても、庶民は旧暦の通り生活しようとして、夏祭りなどの行事は、相変わらず旧暦に合わせて行われていたそうです。
その後も農村では旧暦が残り続け、実際に新暦が全国的に定着したのは、戦後の高度成長期になってからだったようです。

それ以外にも、地方の農家など従来の慣習で種まきから収穫までおこなっていた人たち、季語を大事にする詩歌俳諧の世界の人たち、鉄道関係もかなりの混乱をおこしたそうです。

歴史上有名な日付は旧暦?

明治5年以前の歴史上の日付は旧暦となります。
たとえば、赤穂浪士討入の元禄15年12月14日は旧暦です。

七夕やお盆などは旧暦で行なう地方と新暦で行なう地方が分かれています。

ただ太陰太陽暦は明治5年以前にも何度も暦法が改訂されています。

明治5年に廃止されたのは天保暦です。(弘化元年1月1日(1844年2月18日)から使用)
ですから厳密に当時の暦法による日にちが天保暦(旧暦)と違う場合もあります。

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